~幾野の道の遠ければ~ 月海が日々堕落してゆく日記
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三本の矢
2008-04-10 Thu 02:16
 三本の矢(毛利・吉川・小早川)で有名な毛利一門、豊臣政権末期では毛利輝元の120万石をはじめ、一族を合計すると石高200万石と、後の天下人となる徳川家康の250万石に匹敵する大勢力でした。ところが、毛利元就の三本の矢も、輝元の代になると一枚岩ではなくなっていました。
 天下分け目の戦となる関ヶ原の戦い。輝元は毛利の外交僧で西軍派の安国寺恵慧の言いなりとなり、西軍の総大将へ、吉川広家は東軍に内通、小早川秀秋はどっちつかずと言う、毛利一門は戦前から瓦解の兆しを見せていました。
 結果として、小早川は東軍に寝返り、西軍の主力である宇喜多軍総崩れの切欠を作り、毛利、吉川、安国寺は関ヶ原の戦いでは戦をせずに敗走することになります。
 関ヶ原において西軍崩壊の切欠を作った小早川は55万石まで加増されますが、2年後の秀秋の死と同時に改易、安国寺は敗走中に東軍に捕まり、三成らと共に処刑、吉川は毛利の所領安堵を条件に東軍に内通しましたが、結局は徳川家康に反故にされ、最終的に毛利の所領は30万石まで減らされてしまいます。
 西軍は上杉、島津、宇喜多と大大名が連なる多国籍軍であり、数の上では東軍を超えていました。毛利一門がまとまってさえいれば結果は違ったかもしれません。
 同じ一族であるのに、足並みが揃わないというだけで、一族衰退の遠因になってしまったのです。


 まあ何が言いたいのかと言うと、同じギルドなのに派閥とかあると大変だよねーということで今日は終わり。
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