~幾野の道の遠ければ~ 月海が日々堕落してゆく日記
スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
別窓 | スポンサー広告 | top↑
本隊と別働
2008-09-09 Tue 06:55
確保時間帯における本陣防衛といえば、居残り組みと揶揄されるように、つまらない仕事のようにうつります。というか私も敵を倒す職業柄、本陣よりも別働の方が正直好きです。
とは言っても、本陣が安定しているから別働を出せるというもの。なかなか難しい話ではあります。


慶長五年六月。徳川家康は上杉征伐を決定します。この際、留守にする伏見城を誰に預けるかということが問題になりました。伏見城は徳川家の西の重要な拠点でした。家康が本隊を率いて会津へ向かったとき、もし西国の反家康派が挙兵すれば、真っ先に攻められるのが伏見城だったからです。そして、反家康派の挙兵はほぼ確実な状況でした。
攻められたら死ぬことが確実。伏見城留守居役は囮役ということになります。伏見城の兵が多すぎれば囮になりませんし、少なすぎてすぐに落とされてもいけません。負けることの決まっている戦ですから、裏切られて城を無傷のまま敵に明け渡されるのはもってのほかです。
家康は自分が子供の頃からの家臣である鳥居元忠を留守居役に決めました。徳川家でも重臣中の重臣です。彼ならば裏切ることもないし、反家康派が挙兵すればすぐに情報を知らせ、一日でも長く城を守ると考えたのです。
結果、鳥居元忠は1800の兵で10倍以上の敵を引き付け、10日間も持ちこたえた後に落城となりました。

慶長五年七月。上杉征伐のため会津へ向かっていた家康は小山にいました。ここで、伏見城陥落と西軍挙兵の報告を受けます。西軍が東上する前に家康は全軍を引き返さなければなりませんでしたが、北に上杉、西に石田三成ら西軍と、2正面にはさまれる形となっていました。そこで、対上杉の牽制のために、抑えの部隊をとどめておく必要がありました。ここでも、伏見城と同じ問題が起こります。北には徳川側の伊達政宗がいましたが、この武将は西軍有利とわかれば裏切りかねない信用の置けない人物でした。徳川家の世継ぎ徳川秀忠、その弟忠吉は戦経験のない初陣であり、歴戦の上杉家と、もしかしたら伊達家とも対峙する必要がある以上、任せることができませんでした。
家康は上杉の抑えとして、次男の結城秀康を宇都宮に残すことにしました。秀康は息子たちの中で唯一戦の経験があったからです。秀康は共に西へ向かわせてくれと家康に頼みますが、他に任せられる人物がいないと説得し、引き受けたのでした。

結城秀康は関ヶ原の本戦に参加しなかったのにもかかわらず、関ヶ原での論功行賞では東軍一位の50万石を得ています。他にも結城秀康と共に上杉の牽制にあたっていた蒲生秀行が第二位の40万石、30万石を得た最上義光、加藤清正、前田利長らも、関ヶ原の戦いに参加しなかった、地方で戦ったクチです。家康が『居残り組み』をどれだけ重視していたかがわかる数値ですね。

このように、本陣防衛の居残り組みには、割と信用のおける人物を選ぶ傾向があります。別働で最後の10秒にエンペを割るよりも、本陣の監視や防衛にあたっている方が、徳川家康から見れば大事な仕事なのでしょう。別働に選ばれなかったとしても、自分は信用されてるんだと思えば少しは浮かばれるかもしれませんね。

私は信用されなくていいので別働に行きたいですけど。
別窓 | RO | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<<魔王モロク | 坂の途中 | 9/7 GvG>>
この記事のコメント
top↑
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
top↑
| 坂の途中 |

ブログ内検索

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。