~幾野の道の遠ければ~ 月海が日々堕落してゆく日記
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処世術と外交
2008-10-04 Sat 21:04
織田家と同盟を組んだ大名に、徳川家や長宗我部家があります。
しかし、徳川家と長宗我部家を比べてみると、方や幕府を開いて200年以上の政権を築き、方や江戸時代を見ることなく滅亡してしまいました。
両家の違いは何があったのでしょうか。

織田信長は武田攻めの後、織田家は800万石を領することとなり、他の大名が束になっても対等には戦えないほどの圧倒的軍事力を有していました。
その時、徳川家は三河・遠江の2国、長宗我部家は四国を統一した程度の実力に過ぎませんでした。

武田攻めの際、徳川勢は独力で駿河を制圧していました。当時の論理で言えば、駿河は当然独力で切り取った徳川家の物になりますが、家康は織田信長の天下になることがわかっていたのでしょう。駿河を信長から「拝領」、つまり信長から頂いたということにしたのです。
そして、武田攻めから帰還する織田軍に対してあらん限りの接遇をし、家康自ら駿河を「拝領」した御礼を言上しに安土城まで行っているのです。
まさに家康は諸大名の手本になるような徹底した服従振りを見せ、駿河を「拝領」したのでした。

織田信長が浅井・朝倉・武田等の包囲網に苦しんでいる当時、長宗我部は土佐1国の小大名に過ぎませんでしたが、信長とは非常に友好的な関係を持っていました。
しかし、武田滅亡後、つまり家康が駿河を「拝領」した当時、長宗我部にも同じ問題が起き、織田家と対立することになってしまったのです。

長宗我部は阿波・讃岐を独力で制圧していましたが、信長に阿波をくれてやるから讃岐は諦めて自分に臣従しろと言われました。(大坂に織田家の本拠地を置こうとしていたため、海を隔てて相対する讃岐の地は織田家直轄領にしておかなければなりませんでした)
しかし、長宗我部は「四国は独力で平定し、織田家の支援を受けたわけではない」と、反発してしまったのです。
もちろん、当時の常識ならば独自に切り取った土地はその大名の領地となりますが、駿河を恭しく「拝領」した徳川家康と比べると、長宗我部元親の外交センスは遥かに劣ると言えるでしょう。

意地を貫くのもいいのですが、軍事力で圧倒的に有利な織田家に歯向かうのは、自殺行為とも言えました。
明智光秀の説得も聞き入れず、ついに長宗我部討伐が決定されたのでした。

信長の死後、長宗我部討伐は豊臣秀吉に受け継がれ、長宗我部が自力で獲得したはずの讃岐・伊予、従っていれば信長から貰えたはずの阿波をも領土没収となりました。
対する徳川家康はさらに甲斐・信濃を得て、150万石まで上りつめ、豊臣政権時代には関東6国255万石の大大名に成長したのでした。

関ヶ原合戦後、長宗我部盛親は徳川家康本人に残った土佐を没収され、大坂の陣を経て斬首、長宗我部家は滅亡に至りました。


いざ決戦となった場合、負けるとわかっていても意地やプライドをかけて戦う必要があるでしょう。
しかし、外交の場面では優位な相手とは「争わないようにする」とこが一番なのです。
戦力的に優位な者にとって、弱小勢力と戦う理由などは些細なものでかまいません。一瞬でも歯向かう態度を見せればそれを理由に戦って構わないのです。
対して弱い立場にいるものならば、いかに強い相手との開戦を回避するかに全力を向けなければなりません。戦うことになってしまった場合、それはやむを得ません。存亡をかけて全力を賭するしかありません。しかし、それ以前に敵対しないようにすることこそが、弱小勢力の運命を左右するのです。

強者と直接交渉する場などがあったら、それは千載一遇のチャンスと言えます。逆に、そこで強者と友好な関係を持つことができるかもしれません。徳川家康がそのいい例でしょう。そういう場で反感を買ってしまったら、それこそ大きなミスとなり、長宗我部のように身を滅ぼしてしまうかもしれません。


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